ジャーナル

阿東・徳佐盆地の冬の気配は、足音もなくやってくる。
0℃に近い朝、田んぼには霜が薄く降り、白い息が静かに空に溶けていく。
メタセコイア並木が黄金色に染まるこの季節、船方農場では稲作の一年が静かに幕を閉じる。
そんな冬の入り口、収穫を終えたばかりの水田を眺めながら、水稲部長・桑原さんに今年一年の稲作を振り返っていただいた。
「今年のお米はどうでしたか?」
そう尋ねると、桑原さんは穏やかに笑いながら、ゆっくりと言葉を選んだ。
「いやぁ……今年は、本当に難しい一年でしたね。」
高温、長雨、そして急激な天候の変化。
自然の揺れ幅が大きかった2025年は、水稲部にとって読み合いの連続だった。
晴れが続くと田んぼが乾かず、雨が続くと稲が弱る。
どちらに振れても気が抜けない毎日だったという。
「倒伏は、水の吸わせ過ぎや根の弱さで起きます。
原因が人の管理にある場合は、どうしても避けたい倒れ方なんです。
ですから、水加減は特に慎重に行う必要があります。」
丁寧な言葉の奥に、13年の経験が静かに宿る。

稲作は、何よりも水の仕事である。
田植えを終えた頃、稲はまず水中に強い根を伸ばし、
育ちとともに少しずつ陸に適応した根に切り替わっていく。
「根の切り替わりは、水の状態と深く関係しています。
必要な時に必要なだけ、適度に水を与える。
その繊細な調整が、稲の健康につながるんですよ。」
稲を一本の生き物として捉え、日々の変化を読み取る。
その“目”こそが、安定した米づくりの基礎になる。
稲の成長が進み、根を強くするための中干しの時期が近づくと、
水稲部の大切な仕事が始まる。それが“溝切り”だ。
「溝切りは、中干しの前に行う作業なんです。
田んぼ全体に細い溝を作って、水がまんべんなく流れるようにすることで、
中干しがスムーズに進むようになるんですよ。」
バイク型の専用機械に乗り、田んぼに細い筋を刻んでいく。
見た目以上に体への負担が大きく、集中力も要する作業だ。
だが、この“ひと手間”が田んぼの未来を変える。
「溝を切っておくと、水の抜けが本当に良くなります。
乾きにくい場所がなくなって、田んぼ全体が均一に乾くようになります。
結果として、根がしっかり強くなり、倒伏しにくい稲に育ちます。」
中干しの質は、溝切りの質に左右される。
これは経験者がよく知る“田んぼの鉄則”だ。
広大な水田地帯では、昔から“水のルール”が受け継がれてきた。
草刈り、あぜの塗り直し、水漏れの防止。
どれかひとつでも疎かにすると、周囲の田んぼにも迷惑がかかる。
「担保(たんぼ)は一人でつくるものではありません。
地域の方々と一緒に守っていくものなんです。」
新人時代は、地域に馴染むまで時間がかかったという。
作業を黙々と続け、少しずつ信頼を積み重ね、
ようやく相談される存在になっていった。
「地元の方はずっと田んぼを見てきた方ばかりですから、
基礎ができていないとすぐ分かるんです。
逆に、しっかりやっていれば声をかけていただけるようになります。」
その声は柔らかいが、農業は地域共同体で成り立つことを教えてくれる。

稲刈りは一年の集大成だ。
特に酒米「山田錦」は脱粒しやすく、慎重な作業が求められる。
「機械のスピードを上げすぎると、実が落ちてしまうんです。
見た目では分かりにくいんですが、地面に落ちたお米は戻りません。
ですから、丁寧に、落とさないように収穫することが大切なんですよ。」
稲刈りの時期は天候に悩まされる。
夕立、長雨、乾きの悪さ。
焦りが生まれる季節でもある。
「焦る気持ちは分かるんですが、
品質を守るためには、やはり丁寧な収穫が必要です。」
その姿勢が、今年の高品質な新米につながっている。

都市部の近くでは、耕作放棄地が目立ち始めている。
一度荒れてしまえば、元に戻すのに膨大な労力が必要だ。
「一年放置するだけでも、水が抜けやすくなったり、雑草が根を張ったりして、
再生するのに本当に時間がかかるんです。」
荒れた田んぼは、土の構造が変わってしまう。
白かきを何度も繰り返し、水を留められる状態に戻すには数年を要する。
だからこそ——。
「毎年つくり続けることが、田んぼを守ることにつながるんです。」
この言葉は、水田を守る現場の確かな実感だ。

水稲部の挑戦は止まらない。
「米づくりは一年で終わりではありません。
今年の反省は次の年に生きていきますし、それがまた次の年につながっていきます。」
最後に、桑原さんに「米づくりで一番大切なこと」をうかがった。
少し微笑んで、静かにこう答えた。
「100点ではなく、70点を毎年確実に積み重ねることです。」
完璧を求めすぎず、しかし手抜きはしない。
自然と寄り添いながら続ける“持続可能な米づくり”の哲学だった。

田んぼは、ただの農地ではない。
土地と水と人がつながり、季節が巡るたびに表情を変える生きた存在だ。
27ヘクタール。
13年の経験。
地域の信頼。
丁寧な仕事の積み重ね。
その全てが重なって、今年の米ができあがる。
船方農場の米づくりは、来年もまた静かに続いていく。
水が張られ、風が吹き、稲が揺れ、そして実る。
それを支えるのは、桑原さんをはじめとする水稲部の“見えない仕事”だ。

祖父や父が向き合ってきた農業と、そこに込めた未来への熱量に惹かれ、工学部を中退。
酪農の専門大学を卒業後、船方農場へ。
現在は酪農と情報発信を担当。趣味はカメラ。
農業は、もっとも手ざわりのあるクリエイティブだと思っている。